『イマゴオリィイ家』の奇妙なブログ

アフェリエイトじゃないです。一緒にしないでください。

みんな違ってどーでもいい。

1.

首に低気圧を感じる。

左から右へ目視できるほどの雨と雨飛沫により真っ白に靄がかかっている。

強風により波打ち、脈のようにうねる様子に怒りのような強い意志を感じる。

三つの台風が集まりさらに大きな勢力となった群衆は徐々に日本の脇腹に甚大な影響をもたらしていった。

 

「でかいバケツとモップもってこい!」

 

返事もままならないほどの浸水の速さに焦りと少しの興奮を隠せない。

元々土間だった場所をリフォームしてカフェを開く際に、畳を剥がし土台の位置まで下げたため、そこから水が侵入してきている。

バケツにみるみるうちに溜まっていく雨水をそのままの足で外に返す。

はちゃめちゃな風が吹き、たった数秒でもびしょ濡れになる。

向かいの家の木々は倒れないでいるのがやっとで、本来の生命活動の呼吸や光合成などやる暇もないほど押し倒すような風に本格的に身の危険を感じる。

 

「チリリン」と店のドアが開く音がなる。

 

反射でいらっしゃいませと言うが、こんな時にいらっしゃる方などいるのだろうかという顔で店の入り口をみる。

確かにお客様だった。

しかも海外の人。アジア人である。

たどたどしい日本語と流暢な母国語で話しながら商品を選び決める。

海外ではこれぐらいでは休みの予定を変更しないようだ。

日本人がこんな日にも予定通りで進めるのはバカ真面目な学校か違う方面のバカか。あるいはパーリーピーポーぐらいだろう。

こいつらは家でじっとしてられないからとか、義務だからとか、そーいった歪んだ価値観のもと休むとかリスケとかを悪天候ではしないが、

彼らはちがう。

彼らにとって今起きてる日本での災害レベル4の"暴風雨"は"小雨"ぐらいの感覚なのだろう。

"台風"とか"竜巻"ではない。

単なる"小雨"なのである。 

 

はるか昔恐竜の時代の頃。

超大陸パンゲアのように全てが一つの大陸だった時のような暮らしが今も行われているとすれば

日本という領土の人は常に地底に仮宿をつくり、そこでひっそりと暮らしていただろう。

強い雨風に耐える術もなく、地底で暮らす姿は地球人というより、地底に暮らす宇宙人のようだ。

 

「ありがとうございました。」

 

 

海外の人らが帰ってからしばらくして浸水の勢いがあきらかに弱まったのに気付き、外を見る。

先ほどまでとは打って変わり、生命の安全を向かいの木々の様子から受け取ることができた。

ぐちゃぐちゃになった土間を必死に片付け、昼を迎える。

そしてそれぞれが欠陥住宅について検索を始めた。

 

 

 

2.

未だ秋であるとはいえない。夏がまだ歌い足りないと延長のボタンを押し続けている。

愛用のヘッドホンは松浦さん、いや、若松さんから買い、とても気に入っている。

そのヘッドホンで音楽を聴くことはまだできそうにない。

だが、夜になれば秋がやってきてるのを感じる。

風は少し乾燥をしていて、唇を乾かすそのヒリヒリ感が毎年毎年の秋の合図である。

最近のテーマは「みんなが持つ"変"なところ」

みながどこかなにかが"変"である。

例えば変質者を考える

服を着ないで外へ出たり、好きな人のストーカーをする人など

そんな変質者は、そーゆー"変"なところをもち、それを押し付けてくる。

だが、それは自分らも同じで

ひとには理解できない"変"なところを持っていて

それが別のベクトルに向いているだけである。

 

「だから"変"には"変"をぶつけるべきである。」

 

と最近言われ、その通りであるとおもった。

向けられた"変"に対し、自分の持つ"変"をぶつける。

つまり"変のハンムラビ法典"である。

そしてそのぶつけた"変"に対し

ついて来れるやつだけ、話聞いてやろう。

というスタンスで生きればいい。

 

「許容し合える"変"でなければ遊べない」

と言っていた。

 

確かにそのとおりである。

 

そして、「イマゴオリの"変"は許容できる範囲だから遊べるんだよ。」

と付け足した。

 

2回頷いてこう続ける。

 

「いや、おれは自分を"変"と思ったことはない。

 周りが"変"なのだ。」

 

「それそれ。」

 

私は自分を"変"と思ったことがない。

それはひとえに人にあまり興味がないのだろう。

自分の"変"と思うところはあげられない。

代わりに、人の変なところをあげようと思うと

キリがない。

そして、自分が考えた結果はどー転んでも正しいと思っている。

これは"変"というのだろうか。

もしこの"変"を"みんな違って"

という意味で使うのは言語を簡略化しすぎていると思う。

そしてたとえそそれが"みんな違う"としても

きっと興味がないので

どーでもいいと感じてしまうのだろう。

その中できっと本能的に面白いかそうでないかの

2択でその"変"をいなしていく。

 

’’みんな違ってどーでもいい"

 

そして

 

"どーでもいいし、変なのは世の中である"

 

違うのは構わないけど

イメージできてないやつはダメなんじゃね?

恥ずかしいならやめちゃいなよ

 

 

いや、頑張れ

 

 

kohh終わりです。

明日も書けたら書くよ。

話題はたんまりあるのよ。

まてて

                   いじょ