『イマゴオリィイ家』の奇妙なブログ

アフェリエイトじゃないです。一緒にしないでください。

いつだっておれはラブ&コメディの主人公であるという自覚が大切なんじゃないの?

まんせー

日本には懸賞金ハンターという職業を設けるべきである。

っていうのどーかな??

なんか警察はさ、公務員だからさ

別に最悪適当に流してても別に金もらえるけどさ

懸賞金ハンターがいれば

そっち怖くて犯罪減りそうじゃない?

どーかな?

やってみない?一回。

スタイル変えてみてもいいんじゃない?

なんか昼に食うチャーハン理論でさ

チャーハンとかラーメンって昼食うけど

夜だって、食っても、いいよね

どーかな?

こないだの青木の話を少し。

 

1.青木の30円

 

"30円"

この値段はのちにわかるのだが、

若干9歳の時の青木は、冬は寒いからという理由で登校班で歩いてはこない。

当時の小学生ファッションの流れは半ズボンに長袖でさらに年齢を追うごとに進化するカルチャーの最後は上着の腰巻きであった。

そのなかで青木は1人半袖長ズボンという当時でいうと"イケてない"ファッションをしていて、

思えばその時から彼に時代や環境をぶち壊そうとする考えがあったのかもしれない。

今の我々のカルチャーを知ろうとする流れや、自分を探そうとする流れを作ったのは、他でもない青木なのだが、キッカケは当時だれもセンサーを立てなかった音楽。

"ロック"だった。

青木の家は地区で言えば"スズラン"というところで、うちは"知手光"で自転車で言えば5分もかからないところにあった。

そこの一角には同い年の3人アンデレ、小野田、そして青木。少し離れたところから樹が常に一緒に遊ぶ。いわば幼馴染なのである。

私がよく遊ぶのは"うずも地区なのだが、二回だけ青木の家に遊びに行ったことがある。

1度目は遊戯王をしにゆき、そして2度目。この時はもう13歳か14歳だったとおもう。

その時には青木の部屋にはパソコンがあり、唯一のインターネットが通った環境を持っていた。

そこで初めてみたミュージックビデオが

RADWIMPS君と羊と青だった。

そしておもむろに棚から取り出したRADWIMPSのアルバムを公文の英語の際に使うCDプレイヤーに入れ、乱雑に押された再生ボタンはもはや字が擦り切れて消えていた。

ヘッドホンから再生される音楽と歌詞とメロディと画面から流れる映像全てが真新しく、完璧に作り込まれた作品をみて、度肝を抜かれた。

そしてRADWIMPSと同時にUVERworldを知った。

青木は俺たちにまさしく、

 

"海を知らないものに海を見せ、

そしてその海を越えればまた違う島がある"

 

ということを教えてくれたのだ。

そんな青木は現在バンドを組み、

日進月歩着実に月へ向かおうとしている。

今は家を追い出されてしまったんだが、

こないだから行きつけのパン屋を見つけたらしいのだが、青木が通うその理由が、

「パンの耳が10円で袋いっぱいで買えるから」である。

バンド活動で忙しい青木にとって、こーゆーありがたいものには目がない。

そして買い物を済ませ、すぐにアーティストへもどる。

あの日青木が言ってた。

ブルーハーツのさ、このアルバムのさ、1000のバイオリンあるじゃん?

 あれ聴いてさ、すぐに1001のバイオリンがながれるじゃん?

 あの、甲本ヒロトの言いたいことがさたぶん

 "1000のバイオリンがあります。1001のバイオリン も あります。"

 って感じだよね。」

今になればその事に深く理解できる。

1000のバイオリンだけじゃないぜ。

1001だってあるぜ。

枠から外れたやつだってバイオリンだぜ。

という事なのだろうか。

だからだろうか

青木がいつも買うパンの耳が10円なのに、

袋が30円かかるというのわ。

袋すらもパンの耳だとでも言いたかったのだろうか。

"アイスクリームみたいに溶けてった"のは

青木の脳の思考回路だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

2.ピンクサロンピンサロ

 

雨の日は遊べない。

小学生の頃は雨の日となると憂鬱で、常に外で遊んでいた私からすると、家で1人でいる時間というのはとても退屈で長く感じた。

「鐘の音が鳴ったら帰ってきなさい。」

そう言われていたのに門限を破ったことが三回だけある。

帰れば家の鍵が閉まっていて、母がドア越しに

「反省するまで中には入れません!」といった。

そうして外に締め出された時になんとも言えない"自由"を感じることができた。

夜に外にいること。門限なしに外で遊べると思い、外で1人でサッカーをしだした私を、

2時間後に母が中に入れてくれて、あったかいシチューを出してくれた。

遊ぶ時は必ず遊戯王ポケモンカードと水筒を持って出かける。

いつも行けば誰かがいるうずも公民館の前でまつ。

すでに誰かいる時もあれば、お盆の時期とかは実家が近い私は知らなかったが、みな帰省をするため、何時間待っても誰もこない。

帰って満タンに入れた水筒の麦茶をそのまま明日も持っていく。たとえいないとわかっていても、もしかしたらいるかもしれないので、ゆく。

うずも公民館のガラスの扉には数字を押すタイプの南京錠がかかっており、その番号はなぜだかみんな知っていた。

そして勝手に開けて中の冷蔵庫のアイスを勝手に食べたり、鬼ごっこした際に隠れたり、ショートカットするために使われた。

いわゆる市営住宅の一角にある公民館もいつしか立ち入り禁止になっていて、

なんならこないだ見たら市営住宅自体が立ち入り禁止になっていた。

自分が昔遊んでいた場所や住んでいたところが整備されて行って、淘汰されてゆく。

昨日まで知らなかった顔が、今から知った顔になるような

そんな異質な怖さを

日々時間が進むことへの怖さを感じていました。

やめるやめるといっていたタバコに火をつけて

今年の年末も神栖でデリヘル呼ぶことが決定しました。

31日の仕事終わりに実家に帰ってパチンコ行って、デリヘルよんで、寝ないで成田で飲んで、朝が来たら韓国。

全部やるから

全部書くから

全部を記録して

今年のシメは次回にします。

明日は早起きして大掃除するんだっ

朝起きたらスペシャ

またかく。

                   いじょ

四年で1500万かけた高級な人生

まんせー

今年早かったね。

毎年早くなっているなんて嘘で、

実際には早い年と長い年があるって感じで

大体自分の誕生日を迎えた時にもう終わるのか

という焦燥感と

あれから四年たったという事実をただ突きつけてくるのと

それと同時に今年で四年目になったブログですが、頻度も質もぼちぼちでだらだら書くだけを続けております。

 

1.

今日の話をすこしすると、

東京駅の丸の内口から心踊らせなが改札を出て、少し暗い入り口に観光客や、ツアー客が集合している。

そこから外は白飛びしていてうまく見えないが、今日の天気の良さだけはわかる。

歴史のある東京駅の外観。

よくテレビや観光雑誌で見るような場所で、広々としたスペースがみえる。

色彩はすでに戻っていて紅葉した木やより高く感じる空をみて大きく息を吸う。

それぞれが思い出を写真に残す場に初めて来て、もし海外の友達を連れてくるならここで思い出を残してあげようとそんな変な優しさを持って国際フォーラムへむかう。

今日は日本でかなり大きな骨董市が行われていて、掘り出し物を探しに出てきたのだ。

フリーマーケットが好きな自分が掘り出したのはラグだったり、ピンバッチや、禁煙したはずなのに灰皿。

自分が欲しいものは誰かが大切にしたなにかであった。

年末に差し掛かる前に煌びやかに装飾された街並みに子供の頃にサンタからもらったものを思い出す。

父親のパジャマと似た包み紙を父親だと思って寝たふりをしていたのを、

両親はドキドキしながら待っていたのだろう。

そして階段を笑顔で降りてきた私のプレゼントを2日でチリにした父の顔を今でも思い出す。

 

 

 

 

 

 

2.

「性的な欲動は訓練することができず、その訓練もあるいは過剰になったり、あるいは不足しすぎたりする。」

むかしの哲学者は天才だとおもう。

今の世の中で多様性は認めるという流れが強くなっている。

では異常な性癖を認めることも必要なのだろうか。

自分が考えた最近のテーマとして

"住み分け理論"である。

この理論はかなり便利で

自分には許容できない人は"住み分け"が必要なのだろうなという考えで、

認める認めないとか、思いやるとか意識するとかせずに、

"これは自分の人生には知らなくてもいい、必要のない選択でストレスがうまれる"ため、

住み分けが生まれるという考えである。

植物がそれぞれ過ごしやすく、1番綺麗な花を咲かせられる場所で力強く根を張るというのとにていて、

人もそれぞれが過ごしやすい場を選ぶような感覚である。

しかし、人は選べる場合が多いが性に関してはなかなかそう割り切るのも難しい人もいる。

とくに特殊な性癖をもつ当事者は、肩身が狭い路地裏など、ほかの人が咲かない場所をわざわざ探して密かに発散するほかない。

「エロは捨てるところがない」

と言われるぐらい需要の幅は広い。

でも、だからこそ多様性だと言って認めようとしたり、思いやる必要もないと思う。

その人のオアシスにズカズカ入り込んで晒す世の中になるぐらいなら、

住み分け理論で何も考えないようにするのが1番の優しさではないかとおもう。

という。

今日は真剣な話でした。

"住み分け理論"が自分的にしっくりきて、

人間関係を整理して頭に散らばった本をきちんと本棚に入れることで

今日もスッキリ起きて行動することができます。

これを"清算理論"といいます。

清算しなきゃならないんだよ。

清算して一旦。

あと寒いからね今

あったかくして寝なよみんな。

あと、今年も年末特大号の時期だね

でも年末はさ今年の振り返りしてさ、

年始特大号でビバ韓国編にしようかなっておもってる。

できたらどっちもやるよ。

そんなかんじでバイバイ。

                  いじょ

 

ビックマネーカミングイェア

1.それって"キセキ"?

 

 皆は"キセキ"だと思える事象を経験する事が一回はあるだろう。

それぞれの解釈でそれぞれのタイミングで判断された"キセキ"を、

どこからが"キセキ"であるとは断定するのが難しいため、

先日自分が起こした"キセキ"を元に他を判断していきたいとおもう。

今回我々が起こした"キセキ"は、

 

『スナックの曲選でgreeeenの「キセキ」がかぶる文字通りの"キセキ"』

 

 

をですね。

これを仮に

 "キセキ"    としたとき、

これ以上は

    「それって"キセキ"」

ということになるということです。

 

例えば、

 

「私が生まれてあなたに出会えた。すなわちこれは70億分の1の"キセキ"である。」

 

これははっきり言って"キセキ"ではない。

私は偏考なので、

運命というのはいくつも枝分かれした環状交差点ではなく、

大きな国道をただ進み、逸れても戻ってくるようなイメージだと思っている。

今回の場合、

「あなたに出会えた」

という事は普遍的であり、必然である。

そのため70億分の1ではなく、1分の1である。

つまり僕たちが出会うとか別れるとかは

ギターにピンと張られた弦を弾けば音が鳴るのと同じように

当たり前のことである。

そんなことを

    「それって"キセキ"」

というのは甚だ遺憾である。

全くもって遺憾である。

うん。遺憾。

使ってみたかった遺憾。

話を戻します。

例えば、

「ジジイが死んで、そのジジイを想い献杯をして、そのまま帰ってすぐに飲みいって乾杯をする。"献杯してすぐ乾杯するキセキ"」

これは"キセキ"と言えそうである。

なぜこれは''キセキ"であると言えそうなのか。

この場合の"キセキ"は

「"献杯してすぐ乾杯"できる強メンタルの明るさを持つことができる人が生まれた"キセキ"」

という分類になるだろう。

"キセキ"というのは医療と一緒で、

「今何がどうなっているのか」を

分類ごとに考え精査する事で結論が出る。

今回の場合は

"そんなやついるのキセキだろ"

といったところだろうか。

"太陽のような人"

という例えをする人がいるが

実際の太陽はそんなポジティブで明るいイメージを持たない。

夏の海に行き、強い太陽光から目を守るために

人はサングラスをかけるだろう。

それは音楽フェスに行って、うるさいからヘッドホンをつけて

いい塩梅で乗ろうとする感じではないだろうか。

だから本来はみてやらねばならない。

そして見ればわかるが

太陽もかなりうなだれたようにしている。

うなだれていて、それでいて強くまっすぐに届くものを感じる。 

江戸時代の頃に"光"いうエネルギーという言葉のない時代に、

葛飾北斎は太陽の光を可視化する際に

まばゆいばかりの太陽光が富士山の頂上から差して太陽の光の華やかさ、強さを浮世絵で表そうとしたのだという。

浮世絵は"憂き世''からだというが、

全くその通りだとおもう。

それは自分の境遇や今までの人生をもとに

"憂き世"だというのではなく、

「"献杯してすぐ乾杯"」することが

世の中で"キセキ"であると認められ、

人生辛く、儚いものである。

だからこそ"明るく"生きようとすることで

初めて"キセキ"とは、"気づき"ということになる。

と、

いう形で最初の話を締めようとおもいます。

もっと周りに目を配って"気づいて"くださいね。

 

 

 

 

 

2. バナナがおやつで1番美味しいと思えた時代

 

ちょうど渡りずらい感覚で走る車を待つ間は妙に長く感じる。

実際は60キロ近く出ている車も渋谷のスクランブル交差点歩いている人のが速く感じる。

最後の車を見送り、慣れた自転車を立ち漕ぎで進み始めた。

予定の時間まではこのままいけば大丈夫だと思いながらも、立ち漕ぎはやめないでいる。

立冬を迎えた17時はすでに真っ暗でつい先週まで冬が来ないと思うほどの暑さを経験しているため、防寒をしっかりしなかったため肌寒い。

自転車なんて何年振りに乗っただろうか。

あの時は唯一で最速の乗り物も、年と共に変わる。

あんなに見慣れたタイヤも今ではハンドルの先にあるスピードメーターしか見ない。

今はいろんな選択肢がある中であえて自転車を選ぶ。

それがおれの親世代には羨ましく映るという。

きっといま自分らの世代がお酒を飲まないことが増えたのも、

いろんな選択肢があって、

映画見たり動画見たり電話したりゲームしたり

そーゆーたくさんの選択肢の中にお酒があるため、お酒を飲まずともいられるのだろうなと感じる。

親世代はお酒とタバコとパチンコしか選択肢がなかったため、酒を飲むのだと言われると、

今の時代として生まれてこれたことがラッキーのようにおもえる。

ただ、進んだ技術も結局は昔のが良かったと今の世代ですら思うところもある。

それが"お菓子"である。

コンビニでお菓子コーナーを2列に跨いで商品展開している。

私もほんとに大好きであるがこの増えに増え、

品質も良くなったことで、食へのありがたみが薄くなっているのも感じる。

キャバ嬢が一度上げた生活水準を下げることができず、

①「お金がない時はこの"たんぽぽハウス"通ってたのになぁ」

 

※"たんぽぽハウス"とは、主に東西線沿いにある服がほぼタダぐらいで買えるお店である。

 

たんぽぽハウスをやめて、いまではなんだろう。

なんかららぽーととかのメジャーな服屋で新品を買ってしまうような感じだよね。

源氏名はアスカ。

世代が丸わかりな気がするが、僕たちからすると少し上のようだ。

そうして黒く光沢した鞄を胸の高さまで上げて

「今ではコレだからねぇ」

 

 

「やっぱりこれだよなぁ」

飯塚太一はコンビニで弁当を選んでいる

母親から渡された千円で飲み物と弁当を買うとお釣りはお小遣いになる制度を

フルで活用したい飯塚はできるだけ満足できるカツ丼を選ぶ。

小学生の頃から週に一度の習い事でテニスをやっていて、中学に上がるともちろんテニスを部活に選ぶことにした。

飯塚は皆で食べるカツ丼が嫌いである。

理由は人の弁当を勝手に食う奴がいるからだ。

いつも試合が終わり、唯一の楽しみである昼ごはんのカツ丼を食い荒らされて、1番美味いカツのみを食べられたりする。

いじめられているという感覚とはなんとなく違う。

強いものに屈服して命と引き換えに差し出すという行為に近い。

そうやって心を沈める事でいつしかカツ丼を守るためにご飯はみなとは離れて食べるようになった。

だが、この日はみんなの心が一つになって大きなオオカミになってみえた。

 

 

 

「大きなオオカミにみえてきたかも。」

 

明美はすぐに思った事口に出すんだから。」

 

信号で止まると向かいの人についてよく話す。

確かに首にファーのようなものをつけて、髪の毛はたくさんの束が振りかざすように前髪まで垂れ下がり、後ろ髪が跳ね広がり大きなオオカミのようにも見えなくもない。

普段は源氏名で呼ばれるため、アスカ以外で呼ばれるのは心が家に帰ったようおもう。

明美が物心ついてからはおばあちゃんちで過ごすことが増えた。

家のすぐ近くに離れのようなものがあり、最初はご飯だけそっちで食べていたが、いつしかそこの一室に移動して暮らすようになった。

おばあちゃんはおやつの時間をよく設けてくれて半分に割ったバナナを食べさせてくれた。

 

 

顧問の先生が半分に割ったバナナを試合前に食べさせてくれる。

顧問の先生が丁寧に袋まで用意していてそこにゴミを入れていた。

試合の様子はいつもと同じで、どべ争いになる。

試合をすぐ終わらせて、買つとか負けるとかいう概念よりカツ丼を無事食べるという目標を今日も目指してガットに手をかける。

案の定そんな集中していない状況で勝てるわけもなく、すぐに自分のチームの椅子に戻る。

「今日という今日はカツ丼をたべるぞ」

試合が早く終わり、1人でのご飯を楽しめると興奮し、さあ!蓋を開けるとおもったところで、

 

「飯塚おまえなに食ってんの?」

 

2年の先輩だった。

 

「か、か、かつどんです」

 

「ちょっとみしてよ」

 

飯塚は脳の中に汗が出るのを感じる。

さっきまで走っていたはずなのに

体が冷めていくのを感じる。

過去一度でもこんなに頭を使ったことはないだろう。

いろんな選択肢から導き出した答えが

 

「に、にゃぁぁあ!!!」

 

 

飯塚は走り出していた。

カツ丼は両の手で包まれ、揺れていた。

 

「おい!飯塚!まてよ!!」

 

弱いものは逃げるのと同じで

逃げたものを強いものは追いかけるのだ。

飯塚はどうにか逃げ切り、ご飯を安全に食べれるところを考える。

導き出したときにはすでに遅かった。

 

「う、うにゃぁぁぁあ!!!」

 

スローモーションで床が近づくのが見える。

体が反射で手をつこうとしてカツ丼を離す。

痛みは数秒遅れてやってくるのだが、それどころではない。

 

「ぁぁあ!!!あぁ!!ぼ、ぼ、ぼくのカツ丼ギャァぁ!」

 

後ろから追いかけていたはずの先輩の姿はなく、

床に散らばるカツと米を急いで器に戻す。

その時床に落ちていたのは

漫画でもよく見たバナナの皮であった。

 

バナナが出た時はあたりで、

他の煎餅とか金平糖とかが出る時は

あからさまに食べるのが遅くなる。

おばあちゃんがバナナの皮ゴミ箱に放る。

バナナはあの時で1番甘くて確実におやつであったが、

いつしか遠足にすらも持っていくのに質問される。

バナナはおやつである。

しかし、いまこの増えに増えたお菓子の中で、

わざわざバナナは選ばない。

甘くて美味しいスナック菓子やチョコが世に出てから

バナナはおやつではなくなったのだ。

明美はふとそんなことを思い出した。

スーパーには行かなくなって、コンビニで買うことが増えたご飯のなかで

バナナを思い出しているが、

きっと今食べたとしても美味いとはならないだろう。

バナナをキッチンにある包丁で半分に切る。

あの時と同じ半分こだが、

あんまりおいしくない。

そうして一息で半分を食べ、もう半分を冷蔵庫にしまう。

そしてまた夜の仕事の準備をはじめる。

 

次の試合の準備がはじまる。

飯塚ら膝からドクドクと垂れる血を拭うことすらせずにカツ丼を食べる。

少し砂混じりのカツは別に味は変わらない。

座ったここの階段は誰も使わない暗いところで、涼しいし、人目もつかず楽にご飯を食べ切ることができた。

あの時落ちていたバナナの皮はきっと誰かが捨てて、それに焦った自分が滑ってしまったのだろう。

水色階段に血がたれる。

丸い赤い点が2箇所、3箇所、4箇所。

血を拭うものなど持ち合わせているわけもなく、

込み上げる怒りはバナナに向かう。

 

「誰だよバナナなんか持ってきた奴」

 

少し経ってから自分のチームの椅子に戻る。

カツ丼のゴミを今日の全部のゴミが入っている袋に入れる。

 

「ん?あれ」

 

袋には穴が空いていた.

穴というか大きく破れていた。

その大きな穴から試合前に顧問にもらったバナナが入っていたはずである。

その入れていたはずのバナナの皮はきっと飛んでいってしまったんだろう。

飯塚はゆっくりとチームの座席に座り、ゼッケンを外し始めた。

 

 

                  以上

 

扇情的ハングオーバー

1.「夢」

目を開けると目の前には見慣れない天井がみえる。

すぐに朝が来たことを察し、今いる場所が居候先の家であることに気づく。

年に2回ほどある抜群の目ざめと脳ざめともいうのだろうか。

この"さめ"をタバコをやめてからというもの

毎日経験している。

禁煙を始めたのはつい4日か5日前で、日に日に身体の調子が良くなるのを体感している。

この最高の目覚めと相反するように最悪な夢を見た気がする。

こないだはたくさんのゲイのいるお風呂に入り、みんなが風呂の中で致していて、それにより風呂が茶色になっていくのをみて、

いかにマシな風呂に入れるかをさがしている最中に起きた。

起きてすぐに夢占いを見たが、

 

「あなたは心身共に疲れている」

 

とか書いてあるが、

そんなの見なくてもわかるだろ。

とついツッコミをいれた。

大体が覚えていない夢だが、そういう時にはよくいいアイデアが浮かぶ。

しかし、そのいいアイデアが浮かぶのは、起きて2秒以内で、

しかもすぐに忘れてしまうため、忘れる前にこのブログにめもをしてまたすぐ寝る。

そのため、起きてから

"このメモはきっと面白いんだろうけど、何を言おうとしているのかわからない"

というような現象に陥る。

例えばこれをメモしたのは先月だが、

 

「若林の本」

 

とだけ書かれたメモをしていた。

ここでいう"若林"はきっとオードリーの若林であろう。

おそらく

"若林の書いた本の夢を見てその内容がものすごく面白いから書いた"

というのが予想だが、

肝心の内容を書いていないため、面白いことのみしかわからない。

きっとかなりのオチを見せてくれたのだろう。

そしてAmazonで若林の本をすぐ買うのだが、

花屋になろうと志してからというもの、

寝ていても夢の中で笑いすぎて起きるという現象が起きるようになった。

夢の中で逃げる夢を見た時にはうまく腕を振れず、足も回らないのと同じように

笑いも上手くできないのである。

なので、起きてしまう時というのは

変な笑い方で笑いながら、

布団を掻き分け、空気を掴みながら起き上がり、

目をこすりながらこーゆうのである。

 

 

"おもろすぎるやろ"

 

 

と。

 

 

 

 

2.「きむぱい」

 みんなに"きむぱい"について話さなければならない。

 なぜ唐突にそお思ったのかは最後に話すとする。

聞くが、"きむぱい"を聞いたことあるだろうか。

ここでいう"きむぱい"というのは、おれらの身内の話なのだが、

概念的な話まで繋げられると思ったのでここで話すことにしようと決意したのである。

 

"きむぱい"とは私の地元の中学の時の同級生で、あまりにも乳がデカすぎて、人というよりわ身体の部位で呼ばれることがしばしばだった。

だからと言っても馬鹿にしているわけではないのだが、

みなはおっぱいがでかい人好きだろうか?

私はどっちでもいいのだが、

ここでいうどっちでもいいというのは、

キザな恥ずかしさとクールさをもつ

"どっちでもいい"

ではなくて、

普通に"どっちも好き"の方である。

別になくてもあってもどちらでもいいが、

あればあっただけ良いものである。

ましてや中学生のとてもとても多感な時期に同級生のつつましやかな乳を見てしまうのは仕方のないことで、

乳のでかい子は男どもの高貴とも取れる淫乱な眼差しを受け続けてきたのだろう。

その中でも特に目立つのが

みんなの"きむぱい"なのである。

ここでようやく前説が終わり、これからが本題である。

 

私はその"きむぱい"を知っているんだ。

 

知っているというのは読んで字の如くの知る意味ではなく、まさに"知っている"のだ。

みなが羨望の眼差しでみていたあの"ぱい"を。

そこでの詳しいことは言わないし、言えないのだが、

 

私は"知っている"ということなのだ。

 

みんなの憧れの"きむぱい"を触れ、

青春の全ての風が自分に吹いてきたのを感じた。

帰りに自転車に乗ってウォークマンを聴いていた。

片方をイヤホンを外して、大声で歌を歌ったのを覚えている。

歌った歌の名前は覚えていない。

それは歌の歌詞やメロディ、宿題や学校や家族。

全てを忘れる

"きむぱい"を触ったからなのだろう。

多分みんなの中にもそれぞれの"きむぱい"があるだろう。

つまり、学校の数だけの"きむぱい"があると言える。

もしそれぞれの"きむぱい"を今想像しているのなら、

それは私が常日頃から追い求めているモノ。

 

"青春"を見つけられているんではないだろうか。

 

"青春"とは、"きむぱい"を"知る"

 

事なのだろう。

今日もたくさん酔っ払った。

また明日も酔っ払う。

全てはハングオーバーからなる扇情的な様であるからタチが悪いのだ。

 

はぁ〜〜〜〜〜〜〜

"きむぱい"結婚したってさぁー

                    以上

 

 

                   

 

 

 

禁煙宣言

1.

おれが禁煙する前に 言っておきたい事がある

 

かなりきびしい話もするが 俺の本音を聴いておけ

 

俺より先に吸ってはいけない

 

俺より後に吸ってもいけない

 

タバコは上手く巻け

 

いつもきれいでいろ

 

出来る範囲で構わないから

 

ソフトとボックスの違いを

 

忘れてくれるな

 

 

 

 

タモリが言っていた

 

人間のタバコを吸いたいと思う欲望は

 

15秒と続かない

 

だから15秒まて

 

でも15秒後にまた吸いたくなってる

 

 それ以外は口出しせず

 

黙って俺についてこい

 

 

 

酒を飲むな

 

 飲み会にいくな

 

行っても吸うな

 

先輩と飲むな

 

一本だけにしろ

 

終電前には

 

無事に帰ってこい

 

 

 

おれは再喫煙はしない

 

 たぶんしないと思う

 

しないんじゃないかな

 

ま、ちょっと覚悟はしておけ

 

 

 

禁煙は二人でやるもので

 

どちらかが苦労して

 

やるものではないはず

 

だからお前は吸ってはいけない

 

お前は絶対吸うな

 

絶対に吸うな

 

これから俺が

 

お前のヤニだ

 

 

 

子供が育って年をとったら

 

俺より先に死んではいけない

 

例えばわずか一日でもいい

 

俺より早く 逝ってはいけない

 

何もいらない 俺の手を握り 涙のしずく

 

ふたつ以上こぼせ

 

お前のお陰で  

 

いい人生だったと

 

俺が言うから

 

必ず言うから

 

最後のタバコをくれ

 

 

俺の愛する女は

 

愛する女は

 

生涯お前ひとり

 

忘れてくれるな

 

俺の愛する女は

 

愛する女は

 

生涯お前

 

ただ一人   〜♪

 

 

禁煙宣言でした。

風俗を利用しないと見えない景色

1.

歩きで駅に向かう時は近くのコンビニでアイスコーヒーを買い、歩きながら飲む。

歩き出しの足に目を止め、靴が汚いのを見て少しげんなりする。

ケータイをさわれば画面が汚いのに気づき、

こーやってブログを書いてる間もずっと気になってしまうが

一度だけ拭いてはみるが、汚れはとれずあきらめる。

電車内では主に本を読む。

高速で移動する箱の中で読む本は驚くほど集中できる。

関係のない話だが、前に睡眠の導入が満員電車に乗り込むように感じたことがある。

脳の神経が全て一点に集まり、箱の中に集まるようなイメージがあり、

そのイメージを頭に浮かべる事で不眠症は改善されたことがある。

集中することができる電車内ではできるだけストレスはかけないように乗り換えもせず、

できるだけ長くいたいので各駅を選ぶ。

鈍行は空いているためストレスがない。

そーやって休日はわざわざ家を出て出かける事でリフレッシュをする事ができる。

駅を出れば無機質で熱気がこもり、肌にまとわりつく嫌な感じを助長するように鬱陶しく付きまとう。

小さな川の対流のように人が流れ、たくさんの意識を一同に感じる。

ふと目が止まるの妙に装いが綺麗な派手なメイクに短いタイトのスカートをはいた女性だった。

この女性が何をされてるかはある程度予想がつく。

 

"これは風俗を利用してないと見えない景色"である。

 

風俗を利用してから駅前で待ち合わせをしてるスーツ姿のサラリーマンと見合わない年齢の女性を連れている姿を見るときっと"そーゆーやつ"だと思うことが多くなった。

だからといって言うことは特にはないのだが、

奥さんのいる方がしっかりお金を払って風俗を利用する姿を見ると安心と焦りの両方を感じる。

見てる景色は一瞬だがそこからこうなるのだろうあーなるのだろうと想像を掻き立てるような気持ちにさせてもらえる。

それが私の休日のリフレッシュの仕方である。

 

 

 

 

2.

中秋の名月。迫る15夜の前日の夜にはすでに完璧とは言わずともほぼ完成されたうさぎたちがいつもに増してくっきりと、はっきりとみえる。

季節や節気を気にするようになってから季節がどんどん分割されて日々の変化に細かく気づくようになった。

そして昔の人は15夜の月の美しさに惹かれ、

"こんな綺麗な月が出てる時は外で団子を食おう"

となったのだろう。

今を生きる者が外にでて飯を食う時はきっと

サッカーや野球などのスポーツを見にスポーツバーに行く人や

人が作った予定やイベントに突き動かされて動く人がほとんどである。

季節が変わったり空が綺麗、月が綺麗という自然や環境の変化で動くことは

少なくなっているのだろう。

先日早い時間に国道から帰れたため、ストレスなくスイスイと進む車の中でふと外を見た時に思った。

外を歩いていたのは2人のかなり若い2人組だった。

お昼をすぎてすぐの頃だったため、羽を伸ばして

悠々と歩く二人はこの先のさかえた本厚木の駅に向かおうとしていたのだろう。

天気は快晴でゆうに100日を超える久しぶりの涼しい気温に

窓を開けて外を見ていた。

同じように気持ちよさそうに歩く前の子の姿に少し不思議な感じがした。

"なにか"が普通ではない…と。

後ろの子には感じぬただならぬ違和感。

Hなのである。

乳が。

エロのHではなく

単位としてのHの乳なのである。

人を見て単位で突っ込んだのは今までで初めてである。

Tシャツは大きい人特有の胸を張ったように見えるサイズ感に

明らかにHサイズを強調する姿勢をみせ

苛立ちすら覚える。

笑い混じりの咳をする。

車はそのまま H igh wayに車線を変え、

日本が繋がってると気づく

あそこを通る車は気づいただろう。

彼女を見てHカップを考え、表して生きていたことを。

きっとその子と遊ぶ際には自分のHを隠すだろう。

休憩しよでちゃんとタバコ休憩してしまうのがわかる。

全ては単位からなる連想でしかないが

きっとそうなるのがわかる。

なぜならみながもつ性から逃げることはできないからである。

 

                    以上

みんな違ってどーでもいい。

1.

首に低気圧を感じる。

左から右へ目視できるほどの雨と雨飛沫により真っ白に靄がかかっている。

強風により波打ち、脈のようにうねる様子に怒りのような強い意志を感じる。

三つの台風が集まりさらに大きな勢力となった群衆は徐々に日本の脇腹に甚大な影響をもたらしていった。

 

「でかいバケツとモップもってこい!」

 

返事もままならないほどの浸水の速さに焦りと少しの興奮を隠せない。

元々土間だった場所をリフォームしてカフェを開く際に、畳を剥がし土台の位置まで下げたため、そこから水が侵入してきている。

バケツにみるみるうちに溜まっていく雨水をそのままの足で外に返す。

はちゃめちゃな風が吹き、たった数秒でもびしょ濡れになる。

向かいの家の木々は倒れないでいるのがやっとで、本来の生命活動の呼吸や光合成などやる暇もないほど押し倒すような風に本格的に身の危険を感じる。

 

「チリリン」と店のドアが開く音がなる。

 

反射でいらっしゃいませと言うが、こんな時にいらっしゃる方などいるのだろうかという顔で店の入り口をみる。

確かにお客様だった。

しかも海外の人。アジア人である。

たどたどしい日本語と流暢な母国語で話しながら商品を選び決める。

海外ではこれぐらいでは休みの予定を変更しないようだ。

日本人がこんな日にも予定通りで進めるのはバカ真面目な学校か違う方面のバカか。あるいはパーリーピーポーぐらいだろう。

こいつらは家でじっとしてられないからとか、義務だからとか、そーいった歪んだ価値観のもと休むとかリスケとかを悪天候ではしないが、

彼らはちがう。

彼らにとって今起きてる日本での災害レベル4の"暴風雨"は"小雨"ぐらいの感覚なのだろう。

"台風"とか"竜巻"ではない。

単なる"小雨"なのである。 

 

はるか昔恐竜の時代の頃。

超大陸パンゲアのように全てが一つの大陸だった時のような暮らしが今も行われているとすれば

日本という領土の人は常に地底に仮宿をつくり、そこでひっそりと暮らしていただろう。

強い雨風に耐える術もなく、地底で暮らす姿は地球人というより、地底に暮らす宇宙人のようだ。

 

「ありがとうございました。」

 

 

海外の人らが帰ってからしばらくして浸水の勢いがあきらかに弱まったのに気付き、外を見る。

先ほどまでとは打って変わり、生命の安全を向かいの木々の様子から受け取ることができた。

ぐちゃぐちゃになった土間を必死に片付け、昼を迎える。

そしてそれぞれが欠陥住宅について検索を始めた。

 

 

 

2.

未だ秋であるとはいえない。夏がまだ歌い足りないと延長のボタンを押し続けている。

愛用のヘッドホンは松浦さん、いや、若松さんから買い、とても気に入っている。

そのヘッドホンで音楽を聴くことはまだできそうにない。

だが、夜になれば秋がやってきてるのを感じる。

風は少し乾燥をしていて、唇を乾かすそのヒリヒリ感が毎年毎年の秋の合図である。

最近のテーマは「みんなが持つ"変"なところ」

みながどこかなにかが"変"である。

例えば変質者を考える

服を着ないで外へ出たり、好きな人のストーカーをする人など

そんな変質者は、そーゆー"変"なところをもち、それを押し付けてくる。

だが、それは自分らも同じで

ひとには理解できない"変"なところを持っていて

それが別のベクトルに向いているだけである。

 

「だから"変"には"変"をぶつけるべきである。」

 

と最近言われ、その通りであるとおもった。

向けられた"変"に対し、自分の持つ"変"をぶつける。

つまり"変のハンムラビ法典"である。

そしてそのぶつけた"変"に対し

ついて来れるやつだけ、話聞いてやろう。

というスタンスで生きればいい。

 

「許容し合える"変"でなければ遊べない」

と言っていた。

 

確かにそのとおりである。

 

そして、「イマゴオリの"変"は許容できる範囲だから遊べるんだよ。」

と付け足した。

 

2回頷いてこう続ける。

 

「いや、おれは自分を"変"と思ったことはない。

 周りが"変"なのだ。」

 

「それそれ。」

 

私は自分を"変"と思ったことがない。

それはひとえに人にあまり興味がないのだろう。

自分の"変"と思うところはあげられない。

代わりに、人の変なところをあげようと思うと

キリがない。

そして、自分が考えた結果はどー転んでも正しいと思っている。

これは"変"というのだろうか。

もしこの"変"を"みんな違って"

という意味で使うのは言語を簡略化しすぎていると思う。

そしてたとえそそれが"みんな違う"としても

きっと興味がないので

どーでもいいと感じてしまうのだろう。

その中できっと本能的に面白いかそうでないかの

2択でその"変"をいなしていく。

 

’’みんな違ってどーでもいい"

 

そして

 

"どーでもいいし、変なのは世の中である"

 

違うのは構わないけど

イメージできてないやつはダメなんじゃね?

恥ずかしいならやめちゃいなよ

 

 

いや、頑張れ

 

 

kohh終わりです。

明日も書けたら書くよ。

話題はたんまりあるのよ。

まてて

                   いじょ